皮革製品卸販売のロフティ設立

平成元(1989)年、北野忠男は皮製品・ハンドバッグの輸入・卸販売を開始する。そして、平成2(1990)年には、資本金1,000万円で株式会社ロフティを設立、起業家としての人生をスタートする。28歳の時である。ロフティという社名は、今の自分よりも、もっと志の高いところを目指したいとの想いから名付けられた。

創業当初のロフティは、熊本市長嶺の古いアパートの一室に、電話と机を置いて営業活動を開始。商売としては上々のスタートを切ることができた。若くして会社を設立した北野には、「どんな苦しい時にも人を裏切ることはしてきませんでした。父からも母からも、人に迷惑をかけてはいけないということは強く教わってきました」という思いがあった。 結果的に、それがロフティへの信用信頼に繋がっていった。

北野 忠男

創業当時、北野以下3名でスタートした事業も、2年後の平成3(1991)年には、年間売上高が1億円に届く。スタッフも8名に増え、業績も伸びた。

しかし、順調にスタートしたと見えたロフティだが、3年後に一時的に業務を停止する。ロフティそのものは黒字経営だったが、あくまでも帳簿上でのことであった。結果的に、資産として残ったのは仕入れたバッグだけという状態が続く。「このままでは将来性が見込めない」という北野の判断があった。それから約2年間、ロフティにとって試行錯誤の時が過ぎる。

転機となったテレビショッピング

一時営業活動を停止していたロフティで、販売業務が再開されたのが平成8(1996)年のことである。テレビショッピングという新しい手法によって、ロフティの商品が全国へと展開されるようになった。それが、その後の「えがお」での販売拡大へと結びついていく。

テレビショッピングでロフティがまず手がけたのが、宝石類であった。当時、日本では登場していなかった大珠の真珠ネックレスを低価格で提供し、大きな反響を呼んだ。

ロフティが参加したテレビショッピングは、全国に放映されるシステムであった。番組にはタレント、コメンテーターとともに北野自身が商品説明のために出演することもあった。社長自らが、営業の先頭に立ってロフティを引っ張っていき、大珠の真珠ネックレスを良心的な価格で売るという戦略は、多くのお客様から支持を受けた。

お客様からの注文が殺到すると、ロフティでは社員総出で手作業による商品梱包にあたった。北野は「自分が商品を選んで、自分の『目』が確かだということがようやく証明されました。うれしかったですね。しかし、自分のビシネス感覚が間違っていたら、次はなかった。これで売れたからこそ、今があるのかもしれません」と語る。事業展開に悩んでいたロフティに、将来へ向けた確かな路線が敷かれた。

しかし、ロフティがこれ以上に成長するには、まだいくつかの課題が残されていた。確かにテレビショッピング向けに企画した商品は売れたものの、「買っていただくのはあくまでも新規のお客様がほとんどで、真珠のネックレスではお客様がなかなかリピーターになっていただけない」ことが最大の課題であった。そのような状況を受け、ロフティでは、北野を先頭に新たな商品開発に乗り出す。